榎本艦隊上陸前の五稜郭:
1868年4月幕府から新政府に五稜郭の引き継ぎが行われました。したがって、函館港にある弁天台場も新政府の管理下に置かれることにとなりました。
榎本艦隊、北海道上陸:
1868年(明治元年)10/20・・・榎本艦隊は、函館港を避けて、鷲の木という所に上陸しました。鷲の木は現在の森町のところで函館からは約40キロぐらいです。
どうして函館ではなく鷲の木へ上陸したかというと、函館は当時国際貿易港だったので、たくさんの外国船が停泊しており、また、商売をやっている人もたくさんいたので、もし、戦闘状態になると大変になると思ったからです。
函館五稜郭へ:
先遣隊、嘆願書を持って函館五稜郭へ
榎本氏は五稜郭の函館府に朝廷への嘆願書を取り次いでもらおうと思っていました。嘆願書には旧幕臣を北海道に移住させて、北海道開拓や防衛を行ないたいこと等が書かれていたんだと思います。
先遣隊として30人が嘆願書を持って、函館の五稜郭へ向かいました。その後、別の隊も函館五稜郭へ向けて出発しました。
戦闘勃発 | 函館戦争が始まってしまう
五稜郭の函館府(新政府軍)では、榎本艦隊が鷲の木沖に現われたという情報を得て、各所に兵を配置していました。10月22日夜、峠下という所で先遣隊が仮眠していた時、新政府軍が襲撃をかけてきました。これにより函館戦争が始まりました。しかし、先遣隊は30人足らずでこれに応戦、新政府軍を退却させてしまいます。その後、先遣隊は、後から来た旧幕府軍と合流して、函館五稜郭を目指して進みました。また、別の隊も別ルートで五稜郭を目指しました。
函館五稜郭を占領
五稜郭を目指す旧幕府軍と新政府軍は各所で戦いましたが、旧幕府軍が勝ち続けました。旧幕府軍は北海道に来る前に、色々なところで戦って実戦経験が豊富だったからです。函館府知事の清水谷は、勝ち目がないと判断し、10月25日五稜郭を脱出して青森へ逃げました。
10月26日、旧幕府軍は、何の抵抗もなく五稜郭を占領しました。
10月26日、秋田藩の軍艦高尾(高雄)が東京へ向かう途中函館港に入港してきたので、これを捕えて、榎本艦隊(旧幕府軍)の軍艦にしました。
五稜郭から松前藩へ使者
函館五稜郭を占領した旧幕府軍は、蝦夷地(北海道)に来た趣旨と、平和共存を願う旨を書状に書いて使者に持たせて松前藩へ送りました。使者は、旧幕府軍が上陸して五稜郭にたどり着くまでの戦闘によって捕えられた松前藩士でした。しかし、使者は裏切り者として切り捨てられてしまいました。その後、また使者を送ったのですが、また切り捨てられてしまいました。
どうしてかと言うと、松前藩では、旧幕府軍を応援しようとする勢力と、新政府軍を応援しようとする勢力があったのですが、クーデターが起こり、新政府を応援しようとする勢力が実権を握っていたからです。
五稜郭から松前城下へ進攻
使者を切られ怒った旧幕府軍は、松前藩を攻撃することを決めました。旧幕府軍に加わっていた土方歳三が700人の兵を率いて五稜郭を出発し、途中何か所かで松前軍を打ち破り、11月5日、松前城を攻略しました。この時、軍艦バン竜が艦砲射撃で土方隊を援護しました。ほかにも松前藩のお城があったので、それも、別の隊が攻略しました。11月19日松前藩主は青森に逃げ,11月22日、松前兵は全員降伏しました。
開陽丸、沈没
このころ、軍艦開陽が江差沖で、暴風に襲われ、暗礁に乗り上げ十数日後に沈んでしまいました。函館港から救助に向かった神速丸も救助に失敗し、壊れて動けなくなってしまいました。開陽は当時、最新鋭の軍艦だったので、旧幕府軍の海軍力は大幅に低下してしまいました。