蝦夷地仮政権樹立:
英・仏軍艦艦長と五稜郭で会見
イギリス艦とフランス艦の艦長から会見の申し入れがあり、1868年(明治元年)11月18日、五稜郭で会見が行なわれました。イギリス艦とフランス艦の艦長は旧幕府軍を事実上の政権として承認するので、これからの貿易のこと等について話し合いたいと言いました。しかし、榎本氏は、「蝦夷地(北海道)は日本国の領土であり、独立などするつもりはなく、朝廷から蝦夷地開拓の許可が下りるまでの、仮の政権であると言いました。」そして、両艦長に朝廷への蝦夷地開拓の嘆願書を託しました。
五稜郭で選挙
同じころ、五稜郭で入札(選挙)が行われ、榎本武揚が総裁に選ばれ、仮政権が誕生しました。アメリカの選挙制度を取り入れました。
嘆願書却下
榎本からの嘆願書は、右大臣岩倉具視のもとに届きましたが、却下されてしまいました。そして1月中旬、新政府から「採用せず」との通達が出されました。
宮古湾奇襲作戦
甲鉄が新政府軍へ
12月下旬、アメリカが局外中立を撤廃し、軍艦甲鉄が新政府軍に引き渡されてしまいました。甲鉄とは、ストーンウオール・ジャクソンと言う軍艦のことで、アメリカで南北戦争が行われていた時、南軍がフランスに発注した軍艦ですが南北戦争が終わって、いらなくなったので、徳川幕府がアメリカから購入したものです。ストーンウオール・ジャクソンは、1968年(4月)に幕府に引き渡しのため、江戸湾に入港していましたが、引き渡し先の幕府が大政奉還してしまい困っていました。新政府軍が引取ろうとしたのですが、アメリカは中立を守り、引き渡しませんでした。しかし、12月下旬に、局外中立が撤廃され、新政府に引き渡せれてしまいます。新政府軍は、ストーンウオール・ジャクソンを甲鉄と名づけました。甲鉄は鉄で装甲していました。
どうして局外中立を撤廃したの
外国が局外中立を撤廃したのは、蝦夷地仮政権である旧幕府軍が、だんだんん不利になってきたという情報を外国の代表がキャッチしたからだと思われます。函館は、せっかく国際貿易港だったのに、旧幕府軍と新政府軍の戦闘があるかもしれません。みんな不安になって、商売にも悪影響、流通も滞り、函館の人の不満が高まっていきました。榎本政権もだんだん資金不足になって、高い税金を取るようになりました。函館市民の不満は、ますます高まりました。こんな状況の中、軍艦開陽も沈没してしまっています。経済力、海軍力ともに弱くなってしまいました。このような、情報が流れてしまいました。
海軍力逆転
榎本艦隊は、全部木造船です。これに対し、新政府軍は甲鉄を手に入れました。開陽は、木造船ですが、最新鋭の船なので、大砲も強力で、甲鉄の鉄の装甲を、貫く威力を持っていました。また、大砲の数も、甲鉄は8門ですが、開陽は、26門です。しかし、開陽は、もう沈没してしまっています。したがて、海軍力は逆転してしまいました。
新政府軍反撃準備
年が明けて1869年(明治2年)、新政府軍は、着々と反撃の準備を進めました。3月ごろになると、約7000人が青森に集結しました。海軍は東京湾に集結しました。
海軍力比較
- 榎本艦隊・・・回天、バン竜、千代田形、高尾、その他運送船
- 新政府軍・・・甲鉄、朝陽、春日、丁卯、陽春、延年、その他運送船
宮古湾奇襲
榎本艦隊では、甲鉄の鉄の装甲を貫くため、大砲の弾を改良して、回天に積みました。しかし、甲鉄は強いので、まともに戦ったら、勝ち目がありません。そこで、奇襲をかけて、甲鉄を乗っ取ってしまをうと考えました。